プロフィール 2

パソコン

あなたの仕事は何ですか?

と、聞かれたら、こう答えます。
わたしの仕事は、物を作ることを通して、お客様に快適さ、
便利さを与え、お客様に良い生活をもたらすことです。

物を作ることを始めて15年、物を作ることだけを仕事に
して5年になります。

以前は、勤めながら、休日に作って、イベントで直接販売
をしていました。
今はインターネットと、連絡をいただいた方と直接会って
販売しています。

本当にやりたい、この仕事だけをして5年になります。

これまでの経歴です。
・データ入力 3年
・経理事務 3年
・住宅展示場の事務 3年
・建設会社の事務 3年
・派遣会社に登録し、生産管理事務を3年、経理事務を1年
・宝飾会社のインターネット販売、3年

務めた会社は7社、転職6回でした。

中途採用や、派遣社員は、即戦力にならないと採用してもらえません。
だからと言って、入社してすぐに仕事をスムーズにできるはずもなく、
新しい仕事を覚える量は、半端てはありません。

派遣社員として最初に派遣された会社が今までの所と違って、
大変でした。

初めてやるには、スピードが早すぎて、入社時は1か月くらい
対応についていけませんでした。
慣れてくると、スピードも加速し、順調にこなせるように
なりました。
ここは、周りの人達とも合いませんでした。
社員と、派遣社員が真っ二つに対立して、毎日誰かが
不満を言っている職場でした。
わたしは、文句や不満を言うにが嫌なので、言いませんでした。
その人達の言葉を聞くたびに、とても嫌な気分でした。

だから仕事と人は別だ、と割り切ってやっていた。

生活するため、お金のために働いていたんだなぁ。
お金のためとは言い、こんな精神で何年も続けることは
できないな、と思いながら、2年半頑張りました。

嬉しいことがありました。
その職場をやめるときは、わたしが担当していた大阪支店の
人達が、寄せ書きを書いた色紙を送ってくれました。
仕事、一生懸命やっていました。
どうやったら仕事で関わる人のために、役に立つか、
どうやったら、分かりやすく親切に伝わりやすくなるか。
早く、正確に、分かりやすく、親切に、をモットーに。
それを大切に、考えながらやっていました。
辞めるときに、初めて、この職場で人の役に立てて良かったな
と思いました。

 

転職を繰り返して思ったことは、、とりえず、入ってしまえば、
なんとかなる。です。
とにかく、入って、あとは全力でがんばるだけです。

そして、「どうやって、早く簡単に、間違いなく仕事をこなすか?」
を考えながら、自分にとって分かりやすく見やすいように、
仕事内容をまとめたり、流れを把握します。

これを毎日繰り返すと、少しずつ掴んで、仕事ができるように
なってきました。
最初は、本当に大変なのですが、「自分はできる」と心の中で
思いながら、やっていきました。

「今は大変だけど、いずれ出来るはずだ」と。

3年も経つと、できなかったことが、当たり前にできるようになります。
そして、ここでの仕事は、ずっとする仕事ではない、と思って
辞めてしまっていたのです。いつも、どの職場でも3年が限界でした。

そして、今、物作りだけの仕事で5年、経ちました。
色々な会社の仕事を経験しましたが、どの会社でのどの仕事も、
無駄なものは何もありません。
どんな事も、とても役に立っています。

短期大学を卒業して、最初に勤めたのは、データ入力の仕事です。
私は、パソコンの入力は、かな入力と英字入力、両方でき入力は
早いです。
ひらがなは、ローマ字入力ではなく、かなを使います。
例えば、「は」を打つとき、「HA」と打たずに、Fを打ちます。
ローマ字入力で2タッチするところを、1タッチでするので、
半分になります。
その分、文字入力は、早くなります。
今、とても役に立っているスキルです。

でも、これは私がすごいのではなく、一日8時間、毎日同じ
ことをしていたから、早く打てるのは、できて当たり前ですよね。

カバン作りも同じです。
カバン作りは、好きなことなので、勤めの仕事とはだいぶ、
気持ちや思い入れが違います。
長く続けているのも、作ることが好きで、完成した物を着たり、
持ったりして使うという楽しみがあるからです。
自分が好きな物イコール自分らしさを表現できる服やカバンは、
着たり持ったりすることが
心地良いです。

楽しみながら、服やカバンを制作することに重点を置いています。
そうすれば、誰かの役に立ちながら、収入が入ります。
収入を得て、最高の気分が味わえるのは、なんと素晴らしいことでしょう。

すべての仕事が、今のわたしに役に立っています。
そして、感謝しています。

プロフィール 1

山梨県甲府市に生まれる。


2才のころのわたし。
七五三の5才の兄と母と、神社の前で父が撮影しました。

 

カトリック系の幼稚園に入る。
幼稚園には、教会もありました。
毎日、「お優しい神様、今日も一日ありがとうございます。」と、手を
合わせてお祈りをしていました。
この頃は、何か叶えたいことがあると、真剣にお祈りをしていました。
例えば、小学校のクラス変えのとき、「〇〇ちゃんと同じクラスになれ
ますように」と毎日寝る前に祈っていたら、本当に同じクラスになれ
ました。5クラスあったので、5分の1の確率です。

5才のときに、手術のため東京の病院に10日入院しました。
母も付き添って、2人での病院生活でした。
10日間の間に仲良くなった、となりのベットの男の子、わたしが
退院するとき、タクシーが見えなくなるまで、手を振って見送って
くれました。

ドラマのように、タクシーの後を走りながら、手を振ってくれた
ようです。

「ゆうこちゃん、バイバイ~」と何回も言いながら。

母がその時のことを思い出して、時々話すことがあって、
「あのときは、涙がでたよ」と懐かしそうに言います。

千葉の子でした。ようちゃん、元気にしているかなぁ。。

 


7才のわたしと家族

 

習い事は、あまりせず、公文の算数に小一から中一まで7年間、
通っていました。
父親の親しくしているテニス仲間の奥さんが、公文の先生をしている
ため、家の隣に公文教室があったのに、わざわざ自転車で20分も
かかる場所まで通っていました。

通っていた小学校とは、別の小学校の前を自転車をおもいっきり
こいで、3つ年上の兄の後をついて行ったものです。

ときには、近道だと言って中学校の敷地内を通り抜け、
中学校の裏門に自転車で激突し、ハンドルが胸に当たり、
しかも兄に置いていかれて、泣きながら帰ったことも
ありました。

今となっては懐かしい良い思い出です。

冬の寒い日は、行くのが嫌で、行きたくないと言いながら、渋々
通っていました。
公文のおかげで、頭の中でする簡単な足し算、分数、割り算など、
今でも役に立っています。

余談ですが、わたしが通っていた公文の先生は、80歳を超えた今も
教室をしています。見た目もとても若いです。
父の友人も、80歳を超えてテニスの試合に千葉へ行ったりするそう
です。

 

 

中学校では、吹奏楽部でクラリネットをしていました。
この頃から、音楽が好きになり、クラシック、ユーミン、オフコース
などのLPをレンタルショップで借りて聞いていました。
レコードの世代です。

友達が誕生日プレゼントに、オフコースのLPをくれて、
しょっちゅう聞いていました。

中学3年のとき、山梨県で ”かいじ国体” が開催されました。
吹奏楽部も式典のイベントで、山梨県内の中学の生徒や、
高校生たちと、合唱隊も一緒に、屋外での練習に明け暮れました。

高校、短大と、地元の学校へ行きました。
勉強は好きでなかったので、あまりしませんでした。
何かがしたい、とか、情熱を持っているものもありませんでした。
目的がなく、なんとなく過ごしていた学生時代でした。